三位(全)一体

肉体、幽体、霊体、これら全て偶像(心象)です。

ですから現象界(宇宙)、幽界、霊界も全て偶像の世界です。

どの界層であれそこで創造されたものは全て偶像(心象)です。

この偶像(心象)の世界が神の心です。

 

偶像は創造の結果であり聖書その他神理の書に書かれた教え(内容)は創造の原理について書かれたものです。しかしそれら自体は偶像です。この事をしっかりと認識し理解する必要があります。

一人一人に内在する神のみが唯一神理の導き手だからです。

 

この世は神と一体だとの自覚、我神なりと自覚すると言う本来の目的の為の手段として創造された世界です。

 

霊界も幽界も現象界も本来凡ゆる創造物を通して神がご自身を顕現する為の世界です。

この事を正しく認識し理解する事が大切です。

 

 

 

 

神我

色々と説明してきましたが最も大切な事は自信が神であると言う事をただ受け入れる事です。

神我とは自分が神であると言う意識です。

全てが神(神以外存在していない)なのですから自分が神だと言う意識はごく自然で、至極当然です。

自身の内に生命が宿っているのですから生命そのものである神と一体だと言うこともその通りです。神は無限ですから姿形はありません。故に全てに内在する不可視の御存在である神を五感で見る事は不可能です。また神に対して、あるいは神理に対して外から(知識)から完全に理解(開悟)する事も不可能です。なぜなら自らが神である事さえ知らないで外に神を見出す事は出来ないからです。

 

意識や思考のベクトルを外にでは無く内(内界)に向ける。そしてただ一心に自分は神であり創造主である神と完全に一体だと思い続ける。内観、瞑想、黙想です。この際外なる意識を閉ざす(肉体である自我(偽我)、雑念)事を無我と言います。

内界も神ですから無限です。ですからどこまでもより深く求めることが肝要です。自己(自我)満足で終わらぬように、どこまでもより深く繰り返し求めることが肝要です。

イメージはしない様に心掛けてください。イメージは外なるもの(偶像)ですから意識のベクトルが外を向いてしまいます。雑念瞑想となってしまうと折角の瞑想が台無しになります。

 

ここで知識に関してですが知識やその他凡ゆる現象は「道具」の様なものだと思って下さい。

道具は使い方によっては非常に有用です。しかし道具に囚われてはかえって道具に振り回されてしまいます。 これが様々な迷いや誤解を生み神から離れてしまいます。

正しい理解を確認する手段も内観や瞑想によって行います。そうすれば全知全能なる神が導いてくれます。逆にそれ以外の方法はない事を知っておいて下さい。

どんなに優れた大発見でも、また日常における些細なインスピレーションでもそれら全て神によって顕されています。神と一体の為自らの考えとして顕されます。決して自分が考え出したものではありません。その様な勘違いをする程神は一体として存在しています。

 

  

 

 

 

 

創造原理(本源と本質)

創造原理は今も常に働いている。

何かを創造しそれが具現化したら原理はなくなるのでは無く具現化したものが形(あるいは形の無いもの)全て原理の働きによって維持し続けることが出来る。

ニュートリノ、ブラックマターと言われている、またそれ以上に微細なエネルギー体や宇宙に存在する惑星や銀河に至るまでありとあらゆるものの存在を支えているのが唯一の創造原理であり創造の初めより途切れる事なく支え続けています。

この原理の事を本源(空)、本質(色)と言いこれがです。原理とは神そのものです。

 本源とはであり本質とは水です。また霊とはエネルギーであり水とは質量です。

霊は男性原理、水は女性原理です。またそれは能動原理であり受動原理です。父なる神であり母なる神です。これらは完全一体ですから神は両性です。神は無限であり愛(光)であり生命です。また永遠、久遠のご存在であり全ての支配者(主)であり全ての僕です。そして言葉(意識)です。

これらの大文字はそのものです。言語は元々分離(相対的な)表現しか出来ない為にこの様な説明となってしまいます。

 

 

理解を進める上でこれらの神に対する様々な文字を別々(分離)に認識し理解しようとする事で迷いが生じます。神は神、愛は愛、無限は無限として単独での理解の仕方です。

 

その様な分離(観念)的理解の仕方が様々な宗教や倫理観念、争いを生み出します。観念的な理解によってその認識に違いが生じるからです。自らの都合で神理の解釈をねじ曲げそれを吹聴するためです。

 原因と結果は一体です。これを因果応報と表現しますが創造原理である神が原因であるならばその結果である全ても神です。全てが神だとの認識(理解)であれば報いは神(愛、平安、叡智、光)です。原因は神でそれ以外は神とは別のもの(分離的思考、観念的理解)であれば報いはその別のものとして受けることとなります。

は善です。これを全き善と言います。善悪の本質は原因である全き善であり善悪はその結果です。その善悪を生み出す神(内在の力)でありその力によって人間が善と悪を概念や価値観念によって創り出しています。人間の分離思考も神という力によって創造されています。しかし盲信(分離的思考)は神に対しての無理解(無知)から来ている事は理解しなくてはなりません。善悪は人のものです。その善悪を実在と信じその観念的な理解で神の善を推し量り理解したつもりになっている自分自身の間違いに気付かねばならないという事です。

〜の神とか〜の仏、は単なる形骸です。また聖者方の現象我(名前)も単なる形骸です。それらを神、仏として崇拝し教えを説く事を偶像崇拝と言います。様々な神理の書も文字の書かれた単なる書物(形骸)です。しかしそれら形骸も結果ですがそれらにも神(創造の力)が働いています。神理の書と言ってもそれらの中には偽物も多くあります。その識別をしないとせっかく神理を学ぼうとしても上手くいきません。精神世界に関してのブログやその他の情報の関しても同様です。しかし識別するのは簡単です。例え専門知識が豊富な高尚と思える様な教えでも神との分離を説く内容(一体と説きながらでも)であればそれらは全て偽物です。読んだり聞いたりする事を否定しているのではありません。嘘の裏にも真実(神)がある、つまり神の力が働いているからです。

識別する力も神であり嘘から真実を導き出すのも神の力です。それが出来れば嘘(偽物)に迷う事は無くなります。

 特に気を付けなければならないのは「〇〇(聖者、預言者)の生まれ変わり」だと名乗る似非救世主です。聖者(悟り、解脱、昇天)は全て霊と水、つまり神より生まれ変わっており肉体(母胎)を通して生まれることは無いからです。何故ならもし生まれ変わったとすれば過去は記憶に過ぎず現在(今)のみが実在である事を知っているためです。つまり過去の自分を名乗ったりしないと言うことです。

 

人間の脳に考える力、創造(想像)する力はありません。

簡単に言えば意識が心に働きかけ心によって変換された意識を具体的に表現するための変換装置(媒体)です。わかりやすく例えれば脳はスマホであり電波が意識です。そしてスマホ自体も電気無しでは働きません。人間も同様です。生命(意識、御霊)と言うエネルギーが心を通して脳に流れその結果肉体は動くことが出来ます。そしてその生命エネルギーの流れる経路が神経です。スマホであれ人間であれ全ては原理は同じ神です。身の回りを見渡せば全てがそうであることに気付けると思います。料理一つにしても同じ法則(神)が働いています。この原理(法則、神理)を宇宙科学、宇宙法則と言い自然法則や自然科学はその結果(一部、一現象)です。ですから自然法則や自然科学は人間(分離意識、限定意識)と言う思い込みにより生まれたものです。結果から原因を探求するのですが結果を実態としているために原因(宇宙意識、宇宙法則)にたどり着けない状態です。そのため証明を必要とするのです。

神は全てです。と言う事は神以外存在しないのですから証明しようがありません。

「貴方は生きている。そうであるならば生きている事を証明しろ」と言っている様なものです。

 

 

 

神はでありは神である。

 

神は無限ですから愛は無限の愛です。故に愛のみが実在です。

神は絶対者(完全)ですから愛は絶対(完全)愛です。

神は本源であり本質であり一体ですから愛は調和(一体)です。ですから愛は全ての力の源(因)であり全ての力(果)です。

映画で使用された言葉を引用すれば本源の愛(力)は「フォース(因)」であり媒体を通して表した愛(力)が「パワー(果)」です。

人間の本来の使命は神の愛を愛情として表現する事です。神の創造物である人間、そして鉱物、植物、動物も神の媒体(本質が形に変化したもの)ですからそれぞれに使命があります。普通に考えて神の媒体である人間が愛情と相対的な感情を表現する事は理(神理)に叶ってい無い事は理解出来ると思います。

全てが神の媒体です。言い換えれば神が何かを創造すると言う事は前述した様に神ご自身がそのものに(媒体)なると言う事です。神を愛する事は全てを愛する事であり全てを愛する事は神を愛する事です。この事は非常に大切でありしっかりと理解、実践するように心掛けるべきだと思います。この愛情を「無性の愛」「母性愛」と言い「与えきり」と言います。この与えきりの愛が神でありこれを神は全てのと言います。

 

「種」について(質問より)

旧約聖書では「種無しパン」が出てきます。
種無しパンを食べる儀式は「悔い改め」を意味します。
旧約聖書を読めば分かりますが創世記から神からの分離(「裏切り」の意味です)をアダムとイヴから何度も物語として記されています。
そして裏切り(偶像崇拝)続けるイスラエルの民を導く(象徴として)為に先ずモーゼを使わしその後キリストを人類に与えます。この時代の裏切りの象徴が弟子であるユダですがあくまで物語として捉えた話です。聖書は「天啓」を文字に表した物です。天啓とは神の御言葉でありそれを受ける側では知恵(叡智)と言います。人類のあらゆる発明や発見、技術の進歩は人ではなく神が天啓によって与えたものであり人間が考えた者では無いのです。ですから書物としての聖書であってもアダムとイヴ、イスラエルの民(過去の者)と現在の人類は同じです。
何が同じかと言いますと
 『神』の無理解(これを無知と言います。)の『意識状態』です。
肉を持った者は必ず肉体離脱(死)を体験します。神理に目覚めた者(悟り)は解脱(肉体意識からの解放)します。
例えれば
サタンの象徴である蛇には手足がありません。これは地に這う者の意味であり人間意識(肉体意識)を意味します。
その対象として神の創造力は「御手」地上界を「御足」との表現が聖書に書かれています。これは人類の成長過程にも現れています。
生まれたばかりの赤ん坊は立つことが出来ず手もうまく使いこなせません。
そして成長し2本の足で立ち歩き手を自由に使える様になります。ですからヘブには「未熟』と言う意味も含まれています。
善悪の実は相対的な観念(二元論)を意味し絶対善(一元論)である神からの「分離」を意味します。この文章を読んで正誤、善悪と言う判断をするのであれば(あくまで喩えでありあらゆる事に対してです)それが「善悪の実を食す』です。ですから」善悪の実を食したのはアダムとイヴだけだとの思い込みは「無知」です。
またパリサイ派サドカイ派も神に対しての無理解(裏切り、無知)の象徴であり分離と闘争の象徴でもあります。パリサイ派サドカイ派は現在では宗教、経済、学問など全てを意味しています。一言で言えば「唯物的(分離的)思考』です。
ユダは弟子の一人であり神理を学んでいたにも関わらず唯物的(この場合はお金がその象徴です)な思考(欲望、煩悩)に支配されました。これは「硬い岩の上に落(堕)ちた種」です。神理に対して根(理解力)が浅い事を意味します。
道端に落(堕)ちた種は「神理を受け入れない意識」を意味します。別の表現では「唯物主義者」の事です。根付かなかった(初めから理解しようとしなかった)事を意味します。
イバラの中に落ちた種はこの世界(地上界)様々な誘惑(サタンの誘惑ともいいkます)に囚われ神理をやがて忘れてしまう(根が枯れる)と言う意味でありこれも誘惑と言う欲望、煩悩に囚われて神理を捨て去る事の意味です。
これらの例えの根本的な意味は前述したようにアダムとイヴより現在の人間意識にまで象徴しています。聖書の言葉は現在も生きておりこれからも生き続けます。神は生ける神であり永遠、久遠だからです。

前置きが長くなりましたが本題に戻ります。
先ず種を例えの象徴としたのは神の与えられた使命として植物はその形において『本質」として神の愛を表現している事を理解して下さい。
唯物思考(偶像崇拝)は根を意識せず、地上(見える)部分のみを木だと思っている事です。つまり肉体(幹や枝、葉)だけを見て肉体に力があると思い込みその本源である本来の『生かす力』である生命(根)の理解を無視している事を意味します。先程書いた「浅い根」意識の事です。地上部分だけ成長し根が浅(成長)ければ木は直ぐに倒れて(死)しまいます。つまり根の成長が地上の木を支えて(根によって支えられて)います。これが神(生命)と人類(肉体)との関係(一体)です。

とは生命(御霊)でありその外殻は人間心です。殻(閉ざされた心)を破(心の解放、固体観念からの離脱)り神(内在の神)に心を全開する事を意味しています。パン、木は人間の意識でありその成長は人から神意識への成長(理解、自覚)を象徴しています。

 

 信じるということ(質問より)

貴方が病人に「貴方の罪は許された」か「起きて寝床をたたんで歩け」と言うのとどちらが易しいですか?

「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう。」

この言葉はキリストが神の子(分霊)である事を理解せずにナザレのイエスと言う現象我(ただの人間)だと思っています。神の何たるか(神理)を知らずに神を語っている人達です。
しかしその人達がイエスを人間だと思っている事は間違いではありません。
その人達がそう信じているからです。
キリスト教の教えを信じている人はイエスをキリストだと信じているからイエスがキリストだと言います。でも信じない人達と同様にそれが真実かどうか誰も知りません。
信じるか信じないかは自分次第であり、キリストを理解して初めて「真実」を知ることが出来ます。奇跡と言われるものも同様です。奇跡の「種」を知って理解出来ます。そうすれば奇跡は奇跡で無くなりキリストの行い(奇跡)は当然となります。

最近誰々は〇〇(聖者)の生まれ変わりと言う言葉を見ますがそれを誰々さんを信じる人にとっては生まれ変わりであり信じない人にとっては単なる嘘吐きです。

大切なことはまず『信じる』と言う言葉の本当の意味を知ることです。
信じるとは深く知る、深く理解すると言うのが本来の意味です。理解し自分のものとする事です。
深く知るとは「言葉の本質、本源の意味を悟る」事です。

本源、本質を信じる(理解)事が出来る様になれば聖書の言葉の真の意味(神理)を知る様になります。
そうなれば疑問は無くなります。

神を知らなければなりません。

『神を知る』という事は「全て」は神ですから「全てを知る」事です。

 

『私自らは無である。しかし神とともであれば私は全てである。』

 

 意識について

 

日本語に「言霊」と言う単語があります。

「言霊」とは言葉と霊は同じだと言う意味です。

つまり霊は神ですから言葉は神です。

言葉は原因、言語はその原因より創造された結果である言葉です。

この「原因なる言葉」のことを潜在意識、宇宙意識と言います。一般に言われる潜在意識は顕在意識であり自我意識です。

意識は唯一無二(神意識)です。その意識は生命を通して全て(ミクロからマクロ)に働きそれぞれの媒体が個々に顕現しています。それが人間の思考、言葉、行動と言う結果を創造させています。生命から魂、そして心と言う媒体から脳へと伝わりのから全身へと、そして外へと顕現する事を許し支えています。つまり『内からです。

これが与え切りの意味です。ですから神の愛は与えきりの愛(愛を求めず愛を与える)です。外から得るのでは無く内なる神より愛を常に受けており外から受けているのでは無いのです。ですから自分自身その様にして初めて真の愛を成す事になります。

 

既に愛を受けているのですから愛を外に求めてはならない。ただ受けている愛を顕す(愛を与える)。それが真の愛情表現です。

(愛し方にこだわることは無意味です。愛し方は手段、方法と言う結果だからです。)

 

 spiritは日本語で精神、霊、意識などと訳されますが「神」を顕す言葉です。

spiritualは霊なもの、精神なものを顕す言葉です。「〜的」とは〜の様なものであってそのものではありません。神の様なもの、霊のようなものですから神(神理)ではありません。

宇宙人がとか〇〇が、など個人や個体についての話ですからいくら精神世界の話の様に聞こえても無神論や宗教と同様に現象についての話ですから偶像崇拝(唯物主義)です。

神(神理)は全我であり唯一の実在ですからそれらと神理とは全く無関係です。

結果を求めれば得られるのは結果だけです。原理原則(本源本質)を求めればそれを受けることが出来ます。

何を求めるかは自由です。神に一切の制限制約はありません。求めた物が与えられます。

神は愛であり、僕であり、一切の許しだからです。

いつかは全魂が神の元に帰る(悟り)事は必然です。

 

川には水源があり水は高い所から低いところに向かって流れる。そして流れた水はまた天空へと帰る。その連続する循環が絶え間なく続く。

意識もその通り常に高い意識(本源、精妙)から低い意識(肉体意識、粗雑)へと流れあらゆる媒体を通して また高い意識へと帰る。

高い意識とは天、即ち神であり生命から 魂、肉体(心)を通し想い、言葉、行いとして外へと放射される。常に内から外へ流れている。これが本来の流れでありもし何かを外に求めるならばそれはその意識の流れに逆行する状態となる。

川の流れに委ねれば(バランス、調和)平安であり逆らって泳ごうとすれば(アンバランス、不調和)辛く苦しい。

例えば「愛されたい」「好かれたい」「人からよく見られたい」などの思いは内から外への放射ですがそれらの思いは外(他人)から内(自分)であり本来の流れと逆行しますからアンバランス(苦悩)となります。

もし何かを祈り、求めるのであればそれは外にでは無く内なる神に生命より祈り、求める様にすべきです。

 

無限(原因)と有限(結果)

人間が認識できるものは全て(形があるもの無いもの)有限です。

宇宙は無限の空間です。我々が認識している宇宙も有限の宇宙です。

宇宙が常に膨張していることは知られています。我々が認識している宇宙が膨張し続ける事ができるのは土台となる無限の空間が在ると言う事です。無限空間宇宙です。

例えば雪が積もり雪だるまを作ったとします。雪だるまは形を持っていますが降り積もった雪と全く同じ雪です。これが無限と有限の関係です。無限と有限は相対する (分離)ものではなく無限の中に有限は存在し有限の中にも無限は存在し続けている。

無限の宇宙空間に有限の宇宙が存在しその有限の宇宙の中に人類は存在している。そして人類の中に無限の宇宙は存在している。形を見れば有限の存在であってもその本質は無限だという事です。

我々一人一人、動物、植物、鉱物全ては無限という空間において一体です。

この無限の空間(宇宙)を神の心と言います。

宇宙と言う無限の空間は無ではありません。もし無であれば凡ゆる有限が存在することは出来ないからです。空間には有限なるものが存在するための素材(本質)があります。その素材(本質)をエーテル、電子的質量と言いまた質量を具象化する叡智これが母なる神です。しかし質量(本質)だけでは有限なるものを形を造り出し維持する事は出来ません。そこには必ずエネルギーが必要です。そのエネルギー父なる神です。宇宙空間はこのエネルギーと質量が完全に一体として永遠に存在し続けます。この一体がです。「神は父であり母なる神である。」です。

そしてこの完全一体(絶対調和)がです。愛は創造の力であり全てを支えています。この愛が有限の中で働き有限なるものは生かされ支えられています。この全てに内在する愛を生命と言います。

ですから完全、絶対は神のみです。 神は完全であり絶対なる御存在ですからたとえその結果である有限な存在がそう見えなかったとしても本源、本質において完全なるものです。

 

 ここまで話を進めて来ましたがここに書かれた内容に様々な疑問があると思います。それは当然の事で神、或いは神理を言語を通して理解(悟る)事は不可能だからです。

言語は有限なるものの表現しか出来ません。

ここに書いた一つ一つの 神についての単語も神そのものを表すことが出来ないからです。

「人間」とは肉体と言う媒体を纏った神です。媒体は質量の現象化です。鉱物や植物、動物もそのような一表現です。

父なる神、母なる神も同様で神を人格化した一表現です。しかし一表現であっても神を「父」と言明できると言うことがいかに神を深く理解し神に近しい存在なのかは知っておくべきです。

神は元々非人格的な御存在です。その表現が生命、意識、無限、愛、光、本源、本質などであり五感では知覚、認証出来ません。

神と言う言語も日本語であり英語では GODと言う表現です。

つまり神とは何なのか、神理とは何なのか、またキリストとは、悟りとはなどを明確に表せる言語は無いと言う事です。

表現(創造物)は外なるもの、結果です。

神は表現されざるものです。原因です。言語は言葉によって創造された言葉です。

そして全ては神です。

ですから神を知る(信じる)には自分が神であることを表現の中で理解しそれを自己の中に追求する。そして神を実感し自分が神である事を自覚する。それが一人一人がこの地上界で成さねばならない事です。地上界(現象界)はそのために用意された世界だからです。

この事を知らずに表現(結果)だけで理解したと思っている人が殆どです。

それは迷いのパラドックスに陥ることとなりますのでよく注意して下さい。

 

 信じると言う事は理解すると言う事です。

例えば神が「実父」である言葉を信じるの(信じたい)であれば心からその言葉を繰り返し繰り返し思い続ける事です。

繰り返す事でその思いは現実のものとなって行きます。生命の奥に内在する神が間違い無く実父だと実感すること、そして自分が神の子であり神だと自覚しそれを体現する、それが真に信じる事です。

神の子とは生命です。生命である我において常に父なる神と一体です。

 

覚者の教えに違いはありません。 ただ違うのは覚者それぞれの個性に応じてその表現が異なっているだけです。そのことを真に理解すれば宗教観の分離は消え争いもなくなります。表面的な理解を超えそれらの教えの基本原理である神理を掴む事です。

そうなれば分離された宗教観、そしてあらゆる分野は一つとなり人々が神理によって繋がります。

言語(文字)は人の物、言葉は神理(神)であり神理(神)のものです。

 

 

見えるもの見えざるもの全て神、生命です。 

 

 生命が「主」であり肉は「従」です。

 生きているもの、生かすものと生かされれているものです。

 

は「内」の中に「人」と書きます。

「内」とは神の「心の内」の「人(現象我、媒体)」です。

 

 律法(愛)は天と地、即ち神と人との法です。

一人一人全てに内在する神との法ですから他人は関係ありません。

律法を守るか否かはその人個人とその人に内在する神との事柄です。

律法に忠実で無くても神はその人を罰することを望みません。

悔い改めによって神に一歩ずつ近づいて来る(意識の向上)ことを待っています。

と考えるのが良いかと思います。

 

  我神なり

       我神理なり

 

人類一人一人が神です。

人間は肉を纏った神であり肉は神の意識、想念を表現(顕現)するための媒体です。

自分が神であることに気付く。

言葉や文字、書物や他人からでは無く自分の生命の内に実在する神を唯一の導き手(インスピレーション、天啓、直知)だと知(理解)らなければなりません。

 

 

「掲げた杯が満たされるまでその手を下ろしてはならない。」

 掲げるとは神に対して(使命の成就)の意思決定でありとは魂、肉体(心)です。満たすとは「我神なり」と言う意識を自覚するまでという事を示しています。

 

全てが神であるということは全ての内、そして全ての外も本来天国(愛の王国)です。

全て天国であればそこに地獄(不調和)が存在するはずがありません。

ただ人がそこにある天国を自覚(直知)せず元々存在しない不調和(相対的な価値観、観念、感情など)の象徴である地獄を自ら作り出し、その妄念によって自らを苦しめています。

真の幸福や平安、愛、知恵、力も全て外では無く内からのみです。

 

 もし例えば徳を積みたいのであれば何事を為すにしろ「神の愛の為に全てを成(為)す」と言う想いを常に心に置いて想い(慈愛、癒し)や言葉(慰め、赦し)、施しをします。

これが天(神意識)に宝(徳)を積む事となります。

逆にもし誰かを嫌うのであればそれは神を嫌う事になります。

煩悩やカルマなどの克服も同様の想いを持ち続ける事で自然に薄れて行きます。人間意識での克服は不可能です。それらは人間(肉体)意識によって造られたものだからであり元々実在(天、神)には無いからです。

煩悩やカルマが在ると言う想いによってそれらに力を与えてしまっている為いくら克服しようとしても消えることはありません。消そうと思いが強くなればなるほど逆に「煩悩」「カルマ」に力を与えてしまいます。心に強く固定されてしまうからです。

 

 

全ては神です。ですから全ての中心(点、基準)が神だと言う事です。凡ゆる判断や理解の基準は「愛」だと言う事です。この唯一の中心において全ては一体です。

人間の創造した基準は全て相対的(分離感)です。思考(価値観)、感情、言語、時間、空間、距離など。

言い換えれば人間と神の意識は本来一体でありながら真逆の意識つまり光の意識と影の意識です。